2021-03-12 第204回国会 参議院 予算委員会 第10号
平安の時代から鎌倉時代を生きた北条政子、夫は源頼朝でございます。氏は異なりますけれども、あの二人が夫婦であることは歴史の事実です。 婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、婚姻や家族に関する事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない、こう日本国憲法二十四条はうたっております。
平安の時代から鎌倉時代を生きた北条政子、夫は源頼朝でございます。氏は異なりますけれども、あの二人が夫婦であることは歴史の事実です。 婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、婚姻や家族に関する事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない、こう日本国憲法二十四条はうたっております。
○中村(裕)委員 東北大学の調査の中身を見ると、例えば、答えに源頼朝と書いたら、それは正解ですと。でも源頼朝という名前を記述するだけで記述式というふうな受けとめもあったようですので、文部科学省の数字とは大分違いますけれども、文部科学省として、その重要性を感じ、導入するということにしてきたわけです。
例えば、源頼朝の妻は北条政子、足利義政の妻は日野富子、江戸時代も同様の慣行がありました。 それでは、明治以前、武士など一部の特権階級以外の、例えば町民や農民の氏はどのように取り扱われていたのか、お伺いいたします。
私が住んでおります鎌倉市大町地区に、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の妻政子の父であります北条時政のやかた跡とされる遺跡の地があります。二十数年前までは、所有者の好意で敷地が一般開放され、花見なども行われておりましたが、所有者がかわりまして、それからは閉鎖されて、最近は、その土地を取得した業者による宅地開発の構想が明らかになりまして、地元自治会、住民も開発に反対し、現在、保全運動を始めております。
しかも、歴史で習うときに、源頼朝の妻について、決して源政子とは習いませんよね。北条政子と習います。これは、当時の吾妻鏡には、北条という形では出てこないんですが、源頼家が将軍になったときに、母平政子、従二位平政子で出てくるんです。吾妻鏡というのは、これは鎌倉幕府の正史です。要するに、平政子というのは、北条は桓武平氏ですから平を名乗るんです。
君が代は、古今和歌集や和漢朗詠集にもその源泉を見ることができますし、静御前も義経への愛を込めて源頼朝の前でこの曲で舞ったと言われております。また、江戸時代には、江戸城で元旦にこの曲をめでて平安と繁栄を願ったということでございます。また、物を請うときにこの君が代のメロディーを流してこの歌を歌ったということです。
それで、その後、源頼朝が鎌倉に幕府を移します。そして、これは文化・経済機能は全く移さないで首都機能だけを移したのでございますが、たちまち世の中は変わって、時代が変わっただけではなくして文化もその時代の精神も全く変わってしまいます。この間十年余りでございますが、四百年変わらなかったことが一遍に変わってしまった。
まさか源頼朝が平家征伐に行けないから自分の弟の義経、範頼をやるんだけれども、それのお目付役として梶原景時という悪名高き告げ口役をつけるわけですね、これはもう芝居でも一番悪役なんですけれども。これは本当にもう嫌らしいんです、実際に戦争する人間にとりましては、それは。それが実は監査役でなきゃいけないんですね。監査役はもう社長にとって嫌で嫌てしょうがない、嫌われ者だと。
ところが、その後で源頼朝が出てきて鎌倉に首都機能を移しますと、時代は一遍に変わって、武士の時代と言われる、文化までことごとく変わったわけであります。同様のことは鎌倉時代から室町時代、室町から安土・桃山、そして江戸時代と変わるときにもことごとく起こっていることであります。 明治維新のときも、どうしてあの改革ができたかというと、十年間江戸から首都機能が事実上京都に移ってしまいました。
その具体的なところの例と申しますか、わかりやすい例として、平安時代から鎌倉時代へ移行するところの過程で平清盛から源頼朝に移るというような話が出ておりまして、平清盛はなぜ滅びたかというと、旧来の観念や秩序が支配する平安京に本拠を置いて、従来の国家組織を温存しながら支配を確立しようとしたがため、みずからが旧来の秩序に同化されてしまい、貴族政治から武家政治への転換を遂げることができなかったから平清盛は滅びてしまったのだ
特に司馬先生が言われたのは、これはもう非常に古い話でありますが、源頼朝が鎌倉に幕府をつくったということで日本の政治が武家政治の時代に画然と入ったということを説かれたわけであります。 多少冗長になりますけれども、第一回の調査会で、移転の意義という問題について皆さんどうお考えでございますかということを各委員の皆さんにお聞きいたしました。
さらに二十二ページからの「5 新しい日本は新しい革袋に」において、平清盛と源頼朝の歴史的事例等を踏まえて、新しい日本を築いていくためには新首都という新しい革袋が必要であることを強調しております。 さて、「第三章 首都機能移転の効果」は、首都機能移転のもたらす効果について述べております。 そこでまず、首都機能移転が社会全体の雰囲気を一新し、政治、行政、経済、文化等に大きな変化を生じさせること。
第一章で分析いたしました社会変革をより確実に推進し、加速し、定着させていくためには、明治以降、政官民一体となって経済発展に専念してきた体制を改め、新しいルールを確立するとともに、物理的な政経分離を図る必要があること、その際、政治・行政機能がみずから率先して移転すること、すなわち首都機能移転が最も有効かつ適切な手段であること、さらに、二十二ページからの「五 新しい日本は新しい革袋に」において、平清盛と源頼朝
その後、源氏は、源頼朝が京都から離れて鎌倉に武家政治の中心を置いたということが極めて象徴的だと言うべきだと思うのですが、そういう意味で、この際、首都圏の移転というものをまず歴史的な背景から判断をする必要があるということにつきましては、調査会の中で、皆さん、意見は全く一致したわけであります。
例えば、北条時政の娘政子が源頼朝のところにお嫁に行った、結婚したけれども、結局北条政子という形で通していたということもありますね。 そういうこともありまして、いろいろ要求が出ている状況があることは今お話を申し上げたわけですが、現行法のもとで夫婦別姓を実践するには、旧姓を通称として使用するいわゆる通称方式ですか、それと婚姻届を提出しない事実婚方式しかないわけですね。
例えば、物部氏の書物と言われております「ホツマツタエ」という本、それから源頼朝の子供が編さんしたと言われておる「ウエツフミ」という本、この「ウエツフミ」は山窩の系統の思想で書いてあるということですが、こういう本。それから、いわゆる中国の山東省のラマ寺で発見されたという本があるわけでございます。この本などは実は大変重要な本ですが、これが無視されて今日までは偽書とされてきた。
「タニシのコロナキ」だとか「ハロージャイアンツ」だとか「源頼朝の声」とか——「源頼朝の声」というのはどういう声が聞こえるのかよくわからないけれども、「福澤諭吉の声」だとか、それからもう切りがないほどそういうことをいっぱい次から次へやっていらっしゃるのね。まずそういうこと、どうですか。
そこで、実は静岡県の富士川を境になんと言いますと、源頼朝と何かが対決をしそうな話だけれども、そうではなくて、電気の周波数、サイクルが違うわけです。これは明治の十九年に、何かアメリカ方式をとった西の方とドイツ方式をとった東の方との違いでだそうでありますけれども、私は政治の貧困をこれでつくづく感ずるんですよ。
飛鳥、奈良、平安と天皇親政時代が続いたが、平安中期から摂関政治となり、源平合戦の後に源頼朝の鎌倉幕府以来七百年の武家政治が続いて、明治維新で王政に復古して今日を迎えたのであるが、政治の形態は二千年来いろいろと変わってきたが、天皇制の国体は変わらなかったと思うんだね。
それから第三の鎌倉史跡の保存の問題でございまして、現在史跡に指定しておりますものにつきましては、法華堂跡とか日野俊基の墓とかあるいは源頼朝の墓とか稲村ケ崎とか、そういうようなのはすでにずっと前から指定をしておったわけでございますけれども、御指摘のように最近首都圏の開発等によりまして、鎌倉でも土地造成等が相次いで行なわれるようになってまいったというような状態にあたりまして、その歴史的風土と史跡の保存というものについては
それから源頼朝が鎌倉に幕府を開きました建久三年の旧暦の元日は、太陽暦では二月二十二日になっております。それから大化の改新の行われました大化元年の正月元日は、太陽暦の二月五日に当る。かようにいたしまして、この二千五百何年前の旧暦は新暦の何日に当るということは、これは大体わかるのであります。